6/17

 電車に揺られている。
 本当は黒いワンピースを着ていこうと思っていたけれど、着替える直前になって、思い直した。かろやかでもっと綺麗な服で会いに行きたいと思った。会いたいと思った、なんて文字を打ちながら、内心でわたしは苦笑する。まぁ、そこに彼女なんていないのだけど。わたしは彼女の本名も、住んでいた場所も、生活の様子も、お墓の場所だって知らない。それはたぶん、これからもずっと。
 天国に一番近いところって、どこなのだろう。どこが彼女に一番似合うんだろう。そう、頭を悩ませた日のことをまだ覚えている。学校に行くふりをして家を出て、最寄りの駅のホームでぼうと思いを巡らせたこと。そうして弾き出した答えが水族館、だった。水族館のなかでも、ちょっとだけ空に近い場所。わたしはひとりでそこを訪れて、大きな水槽の前に座り込んで、ただ彼女のことを考えた。彼女の棺に入れてもらえる文章を考えて、打って、また水槽を眺めて。そんな一日だった。穏やかで寂しい日だった。彼女が生命を絶って、二日後のことだ。
 
 早くも筆が止まりつつある。時間はたくさんあるんだから、焦らずに書いていきたいと思う。でもやっぱり、こうして筆が重たく鈍るところが、わたしの弱さだなぁ、とも思う。
 
 わたしは、別に彼女の死がショックでこういう行動を取ったわけではなかった。
 というと、語弊があるけど。もちろん本当にショックで、それ以上に実感がわかなくて。実際今もあまりぴんときていない、ところがある。
 でも、きっとわたしは彼女のことを忘れて、普通に日常を送ることはできたのだ。わたしのフォロワーさんだった。言葉をかわしたし、一度実際会ったこともある。だけど、それだけだった。言ってしまえば、本当にそれだけの関係だったのだ。悲しかったし、ショックだったし、その感情が手足を鈍らせはしたけど、わたしの手足はちゃんと動いた。きっとそのまま翌日学校に行こうと思えば行けるし、友達に会えば普通に笑えてしまうとわかった。
 わかってしまった瞬間、その事実が途方もなく恐ろしくなった。
 きっと自分は忘れる。きっと自分は大して傷つかず流せてしまう。それが心底おそろしい。だから、一日だけ。せめて一日だけ、彼女のことだけを考える日を作りたいと思った。彼女への思いでもなんでもない。ただの、わたし自身の、弱さだ。
 弱さだけがただわたしを突き動かしている。その事実をずっと知っていたけど、ようやくこうして言葉にできた。書けなかったことがたくさんある。それも紛れもなくわたしの弱さゆえだ。だけど今日は、なんとか書き切れればいいな、と思う。そうして初めて、ようやくわたしは彼女とちゃんと向き合えるような気がしている。

 水族館につきました。大きな水槽を見下ろしながら文字を書いています。あのときとおんなじ。あのときは、彼女に送る文章を綴って、そのあと、一つの作品の手直しをしたのだった。
 その作品が、「夏に溶かす」だった。
 もともとこの作品は独立した作品だった。学校の課題で一万字の文章を書かなきゃいけないことになり、困ったわたしが「よーし!とりあえず好きな要素片っ端から詰め込んで生成しよう!」と意気込んで作ったものだった。ふだん、わたしの文章には経験や心情がどうしても滲みがちだけど、あの文章は「自分の好み」だけに焦点を当てたため、珍しくわたしの自我そのものはあまり見え隠れしない文章になっていた。はずだった。
 ほぼ完成形だったその文章に、後付で色がついてしまった。屋上から飛び降りた女の子は彼女になった。遺されて、何かを書き残そうとする男の子はわたしになった。別に各々の登場人物が明確にわたしや彼女をモデルにしたわけではない(そもそも、その前にこの登場人物たちはうまれていたのだ)。だけど、確実にその要素は組み込まれてしまった。感情に質量がこもってしまった。
 それがいいことなのか、悪いことなのか、わたしははかる術を知らない。ただ、「夏に溶かす」はわりかし多くの人に評価された。物語として、小説として、好いてもらえた。それはたしかだ。
 その続編として書いた「夜を晴らす」も、もちろん影響を受けている。「天国に一番近いところって、どこだろう」。言わずもがな、この問はわたしが彼女のことを考えたときにたどり着いたものだ。
 このふたつの作品は、ひとつの本になった。全部で50冊近く刷っただろうか。ありがたいことに、そのすべてが捌けきった。単純計算で、そのくらいの人の手元にこれらの話が届いたということである。その事実が嬉しく、ありがたく、少しつらい。
 わたしは彼女のことを表現したいと思う。何かしらを書き残したいと思う。わたしにできるのはそれくらいだから、彼女が少しでも好いてくれたこの文字で、刻めたらいいと思う。
 だけどそれと同時に、わたしは彼女について書くことが本当に嫌いだった。
 彼女は言わずもがな綺麗だけど、もちろん、綺麗なことだけではいられなかった。わたしは彼女が澱みを抱えていることは知っていたけど、その澱みの色については何もしらなかった。その澱みについて、彼女の死後、聞き齧ったり教えてもらったりして、現在は少しだけその片鱗を知っている。知ってもなお、彼女は綺麗だったという認識は変わらないけれど。それをわかった上でなお、わたしは、わたしの書いた彼女がただ綺麗な描写だけで埋め尽くされていくのを見るのが嫌いだった。それは本当に彼女なのか。綺麗なところだけを書くのは、それしかわたしは書けないからじゃないのか。つまり、お前は何も知らなかった、知ろうとしなかった、ということの証明。抱えていることは知っていたのに、それに踏み込もうとしなかったということの証明に他ならない。
 そして何より、消費している気持ちになる。というか、実際にこれは消費以外の何物でもないのかもしれない。感傷に浸りたいだけ。遺された自分に酔いたいだけ。そうじゃないと、そんなことない、とわたしは言い切れるのだろうか。本当に? だってお前は、そんなに深く傷ついてなんていないじゃないか。思い出そうとしなければ、そのまま笑えてしまうくらいじゃないか。それなのに書く権利なんて、お前にあるのか?
 結局は、自己嫌悪に行き着いてしまう。彼女について書き残そうと試みたことは今までに何度もあった。「夏に溶かす」「夜に晴らす」は彼女について書いたわけではない。そのときのわたしの経験が少し滲んでいるだけだ。そうではなくて、明確に彼女について書いた文章を生みたいと思っていた。命日。誕生日。毎年、そのたびに筆を執って、途中でやめてしまっていた。今日は書けるだろうか。この文章を途中で投げ出さず、最後まで書ききって、ちゃんと出せるのだろうか。出したい、と思う。その気持ちはまだ揺らいでいない。
 
 朝、家を出る前に、「だから僕は音楽を辞めた」の初回限定盤の木箱を引っ張り出して、久々にそれを開けた。人生の賞味期限の話。人生の終わり方の話。あぁ、これをわたしは彼女に勧めたのか、と改めて思う。がつん、と手酷く、でも静かに打たれたような気持ち。
 どうしても初回限定盤を手にとってほしい、と騒ぎ立てたわたしに圧されて、彼女はこれを手に取ってくれたのだった。そして甚く感動して、「あなたが勧めてくれなかったら手に取らなかったよ」とわざわざ感謝をDMで告げてくれたのだった。わたしはそれが本当に嬉しかった。嬉しかったから、鮮明に覚えている。覚えているからこそ、思ってしまう。どんな気持ちで彼女はピリオドを打つことを決めたのだろう。

 脈絡のないことばかりを書いている。でも、読み返したらきっとすべて消してしまうから、このまま綴りきってしまおうと思う。

 約束を、いつか果たしたいと思っている。また救えなかったね、と笑いながら屋上から飛び降りる女の子の話。そんな話が読みたいと言った彼女にわたしは同意した。彼女はわたしに「書いてくれるの?」と問うた。わたしはたぶん、書きたいと答えた、と思う。もうそれすらもおぼろげなのだ。ただ、彼女は読みたいと言っていたことだけは覚えている。だから、いつか書ければいい。書き切れればいい。
 書き切れるだろうか。自信はない。書きかけて、投稿して、そのまま実は放置しているからである。書くことは自傷かもしれない。それでも書ききったら、わたしはまたちゃんと、彼女のことを見つめ直せる気がする。殻をまた破れるような気がしている。待っててくれるだろうか。彼女はそんな他愛のない話、とうにわすれてると思うけれど。

 どうか、今日という日があらゆる人にとって穏やかでありますように。そして、彼女が、あめこちゃんが、どこでもいいから笑っていますように。そう祈ることくらいしか、わたしにはできないけど、祈り続けることだけは、毎年忘れたくない。そう、強く思っている。

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 電車に揺られている。
 本当は黒いワンピースを着ていこうと思っていたけれど、着替える直前になって、思い直した。かろやかでもっと綺麗な服で会いに行きたいと思った。会いたいと思った、なんて文字を打ちながら、内心でわたしは苦笑する。まぁ、そこに彼女なんていないのだけど。わたしは彼女の本名も、住んでいた場所も、生活の様子も、お墓の場所だって知らない。それはたぶん、これからもずっと。
 天国に一番近いところって、どこなのだろう。どこが彼女に一番似合うんだろう。そう、頭を悩ませた日のことをまだ覚えている。学校に行くふりをして家を出て、最寄りの駅のホームでぼうと思いを巡らせたこと。そうして弾き出した答えが水族館、だった。水族館のなかでも、ちょっとだけ空に近い場所。わたしはひとりでそこを訪れて、大きな水槽の前に座り込んで、ただ彼女のことを考えた。彼女の棺に入れてもらえる文章を考えて、打って、また水槽を眺めて。そんな一日だった。穏やかで寂しい日だった。彼女が生命を絶って、二日後のことだ。
 
 早くも筆が止まりつつある。時間はたくさんあるんだから、焦らずに書いていきたいと思う。でもやっぱり、こうして筆が重たく鈍るところが、わたしの弱さだなぁ、とも思う。
 
 わたしは、別に彼女の死がショックでこういう行動を取ったわけではなかった。
 というと、語弊があるけど。もちろん本当にショックで、それ以上に実感がわかなくて。実際今もあまりぴんときていない、ところがある。
 でも、きっとわたしは彼女のことを忘れて、普通に日常を送ることはできたのだ。わたしのフォロワーさんだった。言葉をかわしたし、一度実際会ったこともある。だけど、それだけだった。言ってしまえば、本当にそれだけの関係だったのだ。悲しかったし、ショックだったし、その感情が手足を鈍らせはしたけど、わたしの手足はちゃんと動いた。きっとそのまま翌日学校に行こうと思えば行けるし、友達に会えば普通に笑えてしまうとわかった。
 わかってしまった瞬間、その事実が途方もなく恐ろしくなった。
 きっと自分は忘れる。きっと自分は大して傷つかず流せてしまう。それが心底おそろしい。だから、一日だけ。せめて一日だけ、彼女のことだけを考える日を作りたいと思った。彼女への思いでもなんでもない。ただの、わたし自身の、弱さだ。
 弱さだけがただわたしを突き動かしている。その事実をずっと知っていたけど、ようやくこうして言葉にできた。書けなかったことがたくさんある。それも紛れもなくわたしの弱さゆえだ。だけど今日は、なんとか書き切れればいいな、と思う。そうして初めて、ようやくわたしは彼女とちゃんと向き合えるような気がしている。

 水族館につきました。大きな水槽を見下ろしながら文字を書いています。あのときとおんなじ。あのときは、彼女に送る文章を綴って、そのあと、一つの作品の手直しをしたのだった。
 その作品が、「夏に溶かす」だった。
 もともとこの作品は独立した作品だった。学校の課題で一万字の文章を書かなきゃいけないことになり、困ったわたしが「よーし!とりあえず好きな要素片っ端から詰め込んで生成しよう!」と意気込んで作ったものだった。ふだん、わたしの文章には経験や心情がどうしても滲みがちだけど、あの文章は「自分の好み」だけに焦点を当てたため、珍しくわたしの自我そのものはあまり見え隠れしない文章になっていた。はずだった。
 ほぼ完成形だったその文章に、後付で色がついてしまった。屋上から飛び降りた女の子は彼女になった。遺されて、何かを書き残そうとする男の子はわたしになった。別に各々の登場人物が明確にわたしや彼女をモデルにしたわけではない(そもそも、その前にこの登場人物たちはうまれていたのだ)。だけど、確実にその要素は組み込まれてしまった。感情に質量がこもってしまった。
 それがいいことなのか、悪いことなのか、わたしははかる術を知らない。ただ、「夏に溶かす」はわりかし多くの人に評価された。物語として、小説として、好いてもらえた。それはたしかだ。
 その続編として書いた「夜を晴らす」も、もちろん影響を受けている。「天国に一番近いところって、どこだろう」。言わずもがな、この問はわたしが彼女のことを考えたときにたどり着いたものだ。
 このふたつの作品は、ひとつの本になった。全部で50冊近く刷っただろうか。ありがたいことに、そのすべてが捌けきった。単純計算で、そのくらいの人の手元にこれらの話が届いたということである。その事実が嬉しく、ありがたく、少しつらい。
 わたしは彼女のことを表現したいと思う。何かしらを書き残したいと思う。わたしにできるのはそれくらいだから、彼女が少しでも好いてくれたこの文字で、刻めたらいいと思う。
 だけどそれと同時に、わたしは彼女について書くことが本当に嫌いだった。
 彼女は言わずもがな綺麗だけど、もちろん、綺麗なことだけではいられなかった。わたしは彼女が澱みを抱えていることは知っていたけど、その澱みの色については何もしらなかった。その澱みについて、彼女の死後、聞き齧ったり教えてもらったりして、現在は少しだけその片鱗を知っている。知ってもなお、彼女は綺麗だったという認識は変わらないけれど。それをわかった上でなお、わたしは、わたしの書いた彼女がただ綺麗な描写だけで埋め尽くされていくのを見るのが嫌いだった。それは本当に彼女なのか。綺麗なところだけを書くのは、それしかわたしは書けないからじゃないのか。つまり、お前は何も知らなかった、知ろうとしなかった、ということの証明。抱えていることは知っていたのに、それに踏み込もうとしなかったということの証明に他ならない。
 そして何より、消費している気持ちになる。というか、実際にこれは消費以外の何物でもないのかもしれない。感傷に浸りたいだけ。遺された自分に酔いたいだけ。そうじゃないと、そんなことない、とわたしは言い切れるのだろうか。本当に? だってお前は、そんなに深く傷ついてなんていないじゃないか。思い出そうとしなければ、そのまま笑えてしまうくらいじゃないか。それなのに書く権利なんて、お前にあるのか?
 結局は、自己嫌悪に行き着いてしまう。彼女について書き残そうと試みたことは今までに何度もあった。「夏に溶かす」「夜に晴らす」は彼女について書いたわけではない。そのときのわたしの経験が少し滲んでいるだけだ。そうではなくて、明確に彼女について書いた文章を生みたいと思っていた。命日。誕生日。毎年、そのたびに筆を執って、途中でやめてしまっていた。今日は書けるだろうか。この文章を途中で投げ出さず、最後まで書ききって、ちゃんと出せるのだろうか。出したい、と思う。その気持ちはまだ揺らいでいない。
 
 朝、家を出る前に、「だから僕は音楽を辞めた」の初回限定盤の木箱を引っ張り出して、久々にそれを開けた。人生の賞味期限の話。人生の終わり方の話。あぁ、これをわたしは彼女に勧めたのか、と改めて思う。がつん、と手酷く、でも静かに打たれたような気持ち。
 どうしても初回限定盤を手にとってほしい、と騒ぎ立てたわたしに圧されて、彼女はこれを手に取ってくれたのだった。そして甚く感動して、「あなたが勧めてくれなかったら手に取らなかったよ」とわざわざ感謝をDMで告げてくれたのだった。わたしはそれが本当に嬉しかった。嬉しかったから、鮮明に覚えている。覚えているからこそ、思ってしまう。どんな気持ちで彼女はピリオドを打つことを決めたのだろう。

 脈絡のないことばかりを書いている。でも、読み返したらきっとすべて消してしまうから、このまま綴りきってしまおうと思う。

 約束を、いつか果たしたいと思っている。また救えなかったね、と笑いながら屋上から飛び降りる女の子の話。そんな話が読みたいと言った彼女にわたしは同意した。彼女はわたしに「書いてくれるの?」と問うた。わたしはたぶん、書きたいと答えた、と思う。もうそれすらもおぼろげなのだ。ただ、彼女は読みたいと言っていたことだけは覚えている。だから、いつか書ければいい。書き切れればいい。
 書き切れるだろうか。自信はない。書きかけて、投稿して、そのまま実は放置しているからである。書くことは自傷かもしれない。それでも書ききったら、わたしはまたちゃんと、彼女のことを見つめ直せる気がする。殻をまた破れるような気がしている。待っててくれるだろうか。彼女はそんな他愛のない話、とうにわすれてると思うけれど。

 どうか、今日という日があらゆる人にとって穏やかでありますように。そして、彼女が、あめこちゃんが、どこでもいいから笑っていますように。そう祈ることくらいしか、わたしにはできないけど、祈り続けることだけは、毎年忘れたくない。そう、強く思っている。

底の記録

なにもしたくない、なにもうごきたくない。
ゆるやかに頭上を抑えつけるような、透明な倦怠感。夜が静寂を吐き出すように、脳髄が無色に覆われていく。スマホの画面を、ぼうと眺めていた。文字の波で指先を濯ぐこと、動画を眼球に映すことさえ、気怠くて堪らなかった。ホーム画面を、ただ見つめている。布団を被って、ぱちんと部屋を暗闇で満たすことすら面倒くさい。ただ時間が過ぎゆく感覚を、薄ら寒い焦燥感と一緒に弄んでいる。
自分の中身の、あっけないくらいの軽さ、そのくせ心臓はずしんと重たく思える、この嫌な対比。顔をしかめるほど嫌悪してはないけれど、薄紙が顔の上に被さっていることに今更気づくような、些細な異物感。この手のひらには何もないのだ、という当然の事実。わたしだけじゃない、皆なにかを持っている気がしてるだけで、実際は情けないほど空っぽだ。中身を詰め込むことなんてできないから、空洞を覆い隠すために、必死に外側を飾り立てる。そんなことくらい分かってる、つもりだったけれど、いつの間にかわたしは、何かを持ってる気持ちでいた。お前の上位互換はいくらでもいるよ、お前が誰かの上位互換であるのと同じように。いつもは忘れているそんな当たり前も、今はささくれだった心によく刺さる。
どんどん、何かを零しているように思えて仕方がなかった。自分がどんどん凡庸になっていく。尖りを失っていく。かといって柔らかくもなっていない。言葉も感情も、どことなく借り物のようだ、という定型文までもがどこかで聞いた言葉なんだから、もう、どうしようもない。十代のうちに綺麗に散っておけばよかった、と思うけれど、十代の自分が綺麗だったという前提が、そもそも幻想だ。
感情の波形を思い浮かべる。今は割と、底に近い。それはわかる。朝が来れば、きっとこの感傷は笑い飛ばされる。だけどまた底に潜れば、沈んだこれらをまた見つける。掘っては埋めて、埋めては掘り出す。目につかずとも、消えてくれることはない。水に揉まれて、少しずつ削れることはあるけれど。あと何度、あなたたちと顔を合わせるのだろうか。もう何度、顔を見ただろうか。最初に会ったのはいつだったっけ。もう、忘れてしまった。
そろそろ文字を吐く指が、動きを鈍らせてきた。希釈された倦怠感と不快感が、純粋な眠気に上塗りされていく。きっと明日、ベッドから這い出したわたしは、この文字列を鼻で笑う。仰々しく、薄暗く、馬鹿らしい。黙ってさっさと寝ればよかったのに。呑気さで固められたわたしは、沈み方を普段は忘れている。きっと瞼を閉じれば、今回も忘れる。今の深度に至った理由に、首を傾げて頬を掻く。
重さを帯びた手で文字を綴ったほうが、切れ味がよくなる傾向がある。だから何とか字を連ねてきたけど、結果はこのとおり、灰色の睡魔が絡まるような、鈍い文字列の完成だ。刃の研ぎ方も知らないまま、ここまで来てしまった。刃こぼれするのも時間の問題かもしれない。そんなつまらない可能性を直視するのも嫌なので、黙ってわたしは帳を下ろす。なにかをしなくちゃいけない、なにかうごかなきゃいけない。そんな煩い直感だけが、重たい底で燻っている。

あのときのはなし

 「スズムさんがわたしの世界の中心です」
 
 こう名乗りをあげることが多くなった。おどけてこんな風に自己主張してみれば、周りのかわいいこたちはころころと笑ってくれるのだ。笑ってそう主張できるようになったし、笑って受け入れてくれる人たちが周りに存在している。そのことが溶けちゃうほどに幸せなことだな、としみじみ。そうだ、そうなんだ。こうやって笑っていられるだなんてこと、ちょっと前のわたしは想像さえできなかった。もっと前のわたしが、大事な人を喪うだなんてこと露知らず、だったように。
 ほんの数年前は、好きなひとの名前を口にすることすら出来なかったのに。
 
 いつからこんなにもわたしの中心に居座るようになったのだろう、彼は。確実にわたしの心臓の奥に棲みついているのに、それがいつから、だなんてこと思い出せやしないのだ。
 でも、出会ったきっかけは覚えている。大好きな『終焉ノ栞』プロジェクトだ。
 何がこんなにもわたしの心臓を掴んだのだろう。キャラの個性? ホラーとミステリーの融合? 曲調? 世界観? 言葉遣い? きっとそれら全部、なのだろう。当時中学生だったわたしは月1000円足らずの貴重なおこづかいを血の滲む思いで費やした。『終焉Re:act』に関しては初回限定盤AとBの両方を購入した。二つ合わせて10000円足らず。当時のおこづかいは月900円。がんばったのだ、本当に。
 Twitterなんて、やってるはずがなかった。当時はガラケー所持時代。親が出掛けている合間を縫って、必死にパソコンを覗き込んだ。二週間分くらい溜まったツイートを遡って、ただ眺める。それだけでよかった、とは言わないけど、それができたからまだ我慢できた。
 ささやかな推し事だった。遠くに霞んだその背中を追って、ぽろぽろと落とした足跡を懸命に拾い集めて。それが何よりも大事な宝物だった。
 
 でも、きらきらと輝いていたその背中は、いとも容易く、闇のなかに溶けていってしまった。
 
 10月10日、わたしはその冷たさ、苦しさ、痛々しさを知らない。わたしが彼のことを知ったのは、もっと後。そこから10日ほどさらに経った頃のこと。いつものように足跡を辿って、辿ろうとして、打ちのめされた。
 端的なブログ。
 息が止まった。
 その瞬間、間違いなくわたしのどこかは死んだのだ。そのときの感情を、正直わたしはよく覚えていない。ただ無心で文章を追っていたこと、本当につらいと涙は出ないと知ったこと、そんななかでも案外わたしは笑って繕えたこと。それだけを確かに覚えている。
 わたしはその日、たくさんの悪意に触れた。わたしの大好きな名前はいろんな悪意と一緒にネットの海に流されていた。黒にまみれたその名前。それでもわたしは彼の名前を捨てられなかった。確実に根付いたその愛情は、わたしの一部に成り果てていたのだ。でも、それと同時に、わたしのどこかは確実に黒く塗り固められていった。心が閉じていく音を聞いた。
 
 わたしはその日から、その名前を語ることが怖くなった。
 
 『スズムさんの音楽が聴けない。辛い。大好きなのに辛い、二度と聞けないであろうこと、そしてこれがスズムさんのものか確信が持てないのが辛い』
 
 『無実の罪で死刑宣告をされたような気分。涙がでない。吐きそう』
 
 『少なくとも、わたしは声がすき、彼の紡ぐ言葉が好き、それだけは確かだから、それでいいんだ』
 
 日記帳に刻まれたぎざぎざの文字。それを見返す度に、今でも泣きそうになる。泣きそうになる、ということは涙が出る、ということだから、涙が出るようになってよかった、という安心感もある。
 
 でも、それでも。
 信じられないようだけども、わたしはそれから彼のことを忘れて生きていた。いや、忘れたふりをして生きていた、といった方が正しいかもしれない。でもわたしは忘れた『ふり』をしていることにわたし自身気づいていなかった。だからまぁ、ほぼ忘れていたと同義だと言ってよいだろう。
 いや、でも、気づいてはいたんだ。なぜなら傷が疼くようなことが何度もあったから。そらまふの放送。After the Rainの結成。kemuさんの復活。わたしは別に彼らを追っていたわけでも何でもない。それなのに数ある打撃が友達やクラスメイトを通じてわたしのかさぶたをおちょくりに来た。
 それでもかさぶたはかさぶたのまま、剥がれずにただそこにあった。痛くはない、むず痒く疼くだけ、それに触りさえしなきゃ、目に入りさえしなきゃ忘れていられる。
 
 そんななか、またかさぶたを剥がそうという気になったのはどうしただったのだろう。
 二年前の、10月10日のことだった。
 久々にその名前を検索した。悪意と一緒にぐちゃぐちゃにされた名前が、紙切れのように捨てられるのを見ることになるのに、そうなると思っていたのに、そうじゃなかった。わたしが見つけたのは他の文字列、仄かに懐かしい光を纏ったその宝石、淡い輝き、目を見張る、呼吸の音。
 おぼつかない手で必死にその文字列をYouTubeに打ち込んだ。青伽藍のようなその曲の名前、『東のシンドバッド』。
 
 わたしはその曲を聴いたときの衝撃を、一生、忘れない。
 
 これでも最初の方は余裕があったのだ。高鳴る胸の鼓動とリズムを合わせながら、わたしは指折り『らしさ』を数え上げていた。イントロ、爽やかさ、言葉のチョイス、サビの盛り上がり。
 でも、わたしの中で決定的だったのはラスサビ直前、音の引き方。周りの楽器の音がすっと身を引いたその瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。間違いない。間違いない間違いない間違いない。これは、紛れもなく、彼の、
 そして、ラスサビ転調。息が詰まった、なんてものじゃなかった。今まで堪えていた溜め息、鬱憤、涙、どろどろとした感情が、一斉に弾けとんで星と散った。ずっと目の表面を覆っていた薄暗い雲が、ぱちんと音をたてて消えた。鳥肌が、息を吸う音が、震えが、止まらなかった。
 ここまでわたしを変えてくれた音楽を、わたしは他に知らない。
 
 そこから先は知っての通り。わたしは今ここにいて、こうして息をしていて、この場所がわたしの大きな構成要素になっている。
 彼は彼であって、彼じゃない。それと同時にわたしもあの頃のわたしではない。わたしは彼に言葉を送れるし、それどころかやりとりまで、さらにいえば彼を視界に捉えたことさえある。こんなことを言ってもきっと過去のわたしは怪訝そうに眉をしかめるだろう。
 
 
 結局何が言いたいんだって話だ。
 
 結論部分に来るとわたしはいつだって困惑する。推しは推せる時に推せ? そりゃあもちろん。他人の好きなものを無責任に叩くな? それもある。
 とにかく、好き、に嘘は吐かない方がいいよ、というのが一番近いかもしれない。
 好きという感情は自分が思っている以上に厄介で、重たくて、まるで心臓に巻き付いてくる鎖だ。好きは捨てられない。捨てたつもりでいても、また背中をうじうじと追ってくる。それはもう、子犬のように健気に、かつ媚びた瞳をこちらに向けて。嫌いになった方が楽なのに、と思ってしまうほど好きなものを、今さら嫌いになんてなれるはずがない。当たり前のことだ。
 でも、認めたところでどうにもならない。逃げ場がなくなる。好きと向き合ったところでその想いはどこへもいけない。そんな地獄をわたしは経験してきたし、未だに片足を地獄に突っ込んでいる。
 同じ地獄、もしくは別だけど性質が同じ地獄にすんでいる各位へ。とにかくお互い強く生き抜こうな。あなたの好きは恥じるものではないし、罪深くもないし、あなただけの大事な財産だ。誰にも否定はできない。どんなにそれっぽい御託を並べられたって、それはあなたの想いの否定になどならないのだ。ただ無理はしないで、いつか地獄がシャボン玉のように弾ける日を夢見て、どうか死なないで。
 地獄を経験したことがないその他大勢、そして幸運な方たちへ。どんな理由があったとしても他人の好きを否定しないでください。あのこが好きなものをわたしは嫌い、それは結構。ただ「あれが好きなんてあのこはどうかしている」とは言わないで。地獄で辛うじてわらってる人たちを血の池に突き落とすような惨い真似。なにも言わずに背を向けて。それがわたしたちにとって一番ありがたい心遣い。
 
 すべてのひとが綿毛のようなふわふわした感情でいられますように。やわらかな心で好きな人を好きといえますように。そんなことを願って、とりあえずわたしは筆を置くことにする。果たしてわたしはこれからも好きとうまくやっていけるのでしょうか?
 
 10月10日はそれが問われる節目。わたしは暗い記憶を喰らいながらこの日を乗り越えたい。

雨に踊る

 雨上がりの町ってどうしてこんなにも美しいのだろう。
 
 さっきまで降り続いていた雨は、わたしが玄関の扉を開け放つちょっと前にぴたりと鳴りを潜めた。雨上がりの匂い、降り注ぐ光の雨アスファルトは水に溶かした空の色。町全体が薄い水色で覆われて、さらに金色の粉をちらちらまぶされている。雨上がりは、すべての色彩がこぼれ落ちそうなほどぱつぱつに膨れている。止まれの赤色、街路樹の緑、人工物も自然もごちゃまぜになって、色の渦。
 
 写真を撮ろう、と思ったけれど、なんだかもったいなくて、やめた。
 世の中にはふたつのタイプの景色がある。ひとつは、写真にとると美しく切り取られてくれる景色。もうひとつは、写真に納めようとした瞬間、急激に色褪せていく景色。たぶんこれは後者だな、とわたしは察した。水色のスマートフォンは背中のリュックの中で、もうしばらくおやすみ。イヤホンで体の中をお気に入りの音楽で満たしながら、きらきら光る道路を踏みしめて、歩く。吹いたら消えそうなほど淡い雲は、強い風に押されて駆け足をする。
 
 光と影のコントラスト。金色の光を浴びるのに疲れたわたしは、ひょい、とその暗さに吸い込まれる。居心地のよいじめっとした涼しさ。そこから光の方に目を向けると、余計に眩しくて目がしぱしぱした。足元には水溜まり、映り込む空のかたち。一枚影を被った青色は、鮮明ではなかったけれど、やさしかった。
 
 今日が金曜日じゃなければ。今日が別の日なら。きっとわたしはすべてを忘れてまだ見ぬ町へ駆け出していた。それくらいこの瑞々しさはわたしの心を浮き立たせた。カバンを期待でいっぱいに膨らませて、降り立ったことのない駅に向かってみたい。ぶらぶらと知らない顔を眺めながら、知らない道をスキップして、そのまま遠くに消えてしまいたい、蒸発する雨水と一緒に。
 
 そんな、雨上がりの朝。
 

プロメアを推す

 みんなプロメアを愛そうぜ。
 
 いや本当に。この一言に尽きるんですよわたしはプロメアを愛しています。お尻に火をつけられたので金を惜しまず出してるし友達を映画館まで連行してるけどまだ足りない。愛しかないよ……
 というわけで纏まりすらしてないプロメアへの愛を語り尽くそうと思っているのです。ネタバレはしないように心がけてるのでまだ行っていない人も安心して読んでね。そしてそのまま映画館に行こうね。
 
 まずその一。主人公がアツい。
 その男、ガロ。とげとげに立たせた前髪に筋肉質な体つき。見てわかる、これ真っ直ぐおバカな熱血系主人公や。いやその直感ももちろん間違いではない。間違いではないけどそれだけではないのだ。
 バカには二種類いる。ひとつは視野が狭いタイプのバカ。もうひとつは視野が広いタイプなのにバカ。この話、プロメアでは、主人公は前者から後者へと成長する。
 バカであること、無知であることは人を救うことが多い。純真さ。それがどうした、と、からりとしがらみを切り捨てられる朗らかさ。それらも一般的に「バカ」という括りに入れられているからだ。いい意味での、子供っぽさ。世間で「子供っぽさ」が愛される所以はここにあるとわたしは勝手に思っている。
 でももちろん、無知であること、子供であることは残酷だ。無邪気な一言は、悪気がないだけタチが悪い。例え無邪気な言葉に傷つけられたとしても、その人は悪意のない相手のことを責めにくいのだ。傷ついたひとが善良であれば善良であるだけ、その人は無邪気な相手を糾弾できない。さらに傷は深まっていく。なぜなら、ひどい、と払い除けられない言葉ほど自分を蝕むものはないからだ。
 無知なバカは罪だ。でも、物を知るバカは愛される。
 物を知るバカ、というワードは一見矛盾に満ちているように思える。が、「バカ」と「物事を知っている」ということは両立可能なのだ。
 バカは、物を知らないことではない。何故なら、「手段を知った上であえてそれを切り捨てる」という無謀さもバカに違いないからだ。責任あるバカ、とでも言い換えられるだろうか。あえて無難な道を切り捨てて、ハイリスクな道へ突き進む。そこには彼自身の意思がある。誇りがある。そして自己責任がある。
 この物語で、主人公は自分の無知を思い知る。そして、それを受け入れる。受け入れて、それでもバカとして生きる。そこに覚悟が生まれる。意志が生まれる。信念が光る。その過程が、堪らなくアツい。
 
 その二。リオくんがいとおしい。
 ガロが無完全な主人公なら、リオくんは完成されたライバルだ。いやもう見てわかるじゃん。容姿からして完成し尽くされている。造形美。もうリオくんの顔面拝むだけで寿命1万年延びそう。リオくん~~!!!!!!! あと1000000回会いたい
 もちろん、内面も完結している。バーニッシュとして生きるその誇り高き姿。そしてやさしさ。他人を思いやれるやさしさ、感受性、これについてメチャメチャ具体例を挙げつつ語り尽くしたいけどネタバレになりかねないので血涙を流しつつ口をつぐみます。リオくんはいいぞ。死ぬまで会いたい
 
 その三。映画館だからこそ生きる超絶アクション、音楽、映像美。
 ぜひとも円盤まで待たないで映画館のあの音響と大画面でプロメアを浴びてほしい。ポップでキュートな色づかいで繰り広げられるハードなアクションシーン。最高にカッコいいBGM(BGMが入るタイミングが本当に気持ちよすぎて毎度毎度アドレナリンどばどば出てしまう)。エンドロールの色づかいまで拘り抜かれたハイセンスさ。本当に見てほしい。あれは浴びるタイプの栄養剤。ただしあまり前すぎる席で観るのは気を付けよう、普通に情報過多でヒートする。
 
 その四。がっつりアクションの裏に蠢く、凄まじいほどの感情の波。本当にプロメアをただただアクションものエンターテイメントとしてだけ消化するのメチャメチャにもったいない。プロメア一回摂取だけでここまで求めるのは酷かもしれないが、どうか登場人物ひとりひとりの感情のうねりこそに心動かせる人間でありたいものだ。正義。信念。敵意。憧憬。挫折。裏切り。怒り。自己嫌悪。劣等感。信頼。そして愛。それらすべてが異常なまでにひしめきあって水面下で波打つ。それなのに全く嫌味がない。むしろ爽快感すら感じさせる。これこそがこの作品の最大の魅力だとわたしは確信している。これに関してはひとつひとつシーンを列挙していやというほど語りたいけどネタバレになるので今は口をつぐみます。つらい。
 
 ほんとうに、本当に魅力たっっっぷりの『プロメア』をどうか今後ともどもよろしくお願い致します。まだ間に合う。今ならまだ間に合うんだ行っていないあなたは今すぐ予約してくれ頼む。行ったことのあるあなたはもう一回行っておこう。一度上映が終わったらもう二度と映画館では見られない。そして観たひとはわたしに感想を送りつけてください。
 

ゆめのはなし

天衣無縫、という言葉に突っかかった。

昨日の帰りにわたしが書いていた小説の一部分だった。読み直して、手直ししているとき、ちょうどその言葉に突き当たったのだ。天衣無縫。その言葉が何故かわたしの心を波立たせる。厚い氷の下の冷たい水。無意識という水を大きく荒ぶらせる。氷に小さくひびが入った。あぁ、わたしはこの言葉を夢で見たのだ、と気がついた。

なんの夢だったのだろう、とわたしはぼんやり思いを巡らせる。思い出せない。ただ、漠然とした感情だけが、薄靄のようにわたしの心の表面を覆う。それは、何だか甘苦かった。何かを懐古するときの心情ににている。せつなさ、が一番近いかもしれない。だいじなもの、その刹那さに恋い焦がれるような、切なさ。それをもっと煮詰めたもの。お砂糖を熱で焦がした、あの匂い。

大事なものを夢で見た気がする。なのに、手がかりは、天衣無縫。それだけ。大切なもの、大切な人を思い浮かべてみる。
夏。小説。体育館。ボールを弾く音。夜の電車。全部違う。

夢の中でしか会えない風景、会えないひとがいる。それかもしれない。わたしはそう思って溜飲を下げた。夢の中で、いつも思うのだ。あぁ、またここに来た。またあなたに会った。それなのに目が覚めると思い出せない。残っているのは、既視感。また会えたね、の名残だけ。

ゆめって、なんだろう。わたしの夢は、色鮮やかだし、匂いもあるし、食べられるし、痛みだって、する。夢だ、と気づかせてくれるのは、違和感、それだけ。文脈から逸脱した突飛な展開、現実ではありえない不可思議な現象。でも、夢の中にいるわたしは気づかない。ぱち、と目が覚めて初めて、わたしはその歪な継ぎ接ぎに気づくのだ。

色の鮮やかさが印象的で、忘れられない夢がある。わたしは夜、ベランダの窓を閉めようとした。電灯が僅かにぽつぽつと灯る、薄黒い夜だった。網戸を見る。ちいさな蟹が引っ付いていた。親指くらいの大きさ。こども、だと思う。茹でたてみたいに真っ赤な蟹だった。ぷくぷくと細かな泡を吐いている。僅かな光を反射するその甲羅とぶくぶくをみて、わたしはなぜか、心底ぞっとした。そんな夢。たしか、長い長い夢の一場面。だけど、わたしはこのワンシーンだけが忘れられない。

夢の欠片、名残を掴めたとき、わたしは嬉しくなる。その欠片を引っ張って、後ろにずるずるとほかの破片もくっついてきてくれれば大成功。後ろにおまけが付いてこない時は、仕方ないのでその欠片を大事に両手で抱え込む。どうしてこんなに大事に抱き抱えるのか、それは自分でもわからない。
ただわたしは、夢が引き摺り起こした感情を、なぜだか捨てきれないのだ。