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 電車に揺られている。
 本当は黒いワンピースを着ていこうと思っていたけれど、着替える直前になって、思い直した。かろやかでもっと綺麗な服で会いに行きたいと思った。会いたいと思った、なんて文字を打ちながら、内心でわたしは苦笑する。まぁ、そこに彼女なんていないのだけど。わたしは彼女の本名も、住んでいた場所も、生活の様子も、お墓の場所だって知らない。それはたぶん、これからもずっと。
 天国に一番近いところって、どこなのだろう。どこが彼女に一番似合うんだろう。そう、頭を悩ませた日のことをまだ覚えている。学校に行くふりをして家を出て、最寄りの駅のホームでぼうと思いを巡らせたこと。そうして弾き出した答えが水族館、だった。水族館のなかでも、ちょっとだけ空に近い場所。わたしはひとりでそこを訪れて、大きな水槽の前に座り込んで、ただ彼女のことを考えた。彼女の棺に入れてもらえる文章を考えて、打って、また水槽を眺めて。そんな一日だった。穏やかで寂しい日だった。彼女が生命を絶って、二日後のことだ。
 
 早くも筆が止まりつつある。時間はたくさんあるんだから、焦らずに書いていきたいと思う。でもやっぱり、こうして筆が重たく鈍るところが、わたしの弱さだなぁ、とも思う。
 
 わたしは、別に彼女の死がショックでこういう行動を取ったわけではなかった。
 というと、語弊があるけど。もちろん本当にショックで、それ以上に実感がわかなくて。実際今もあまりぴんときていない、ところがある。
 でも、きっとわたしは彼女のことを忘れて、普通に日常を送ることはできたのだ。わたしのフォロワーさんだった。言葉をかわしたし、一度実際会ったこともある。だけど、それだけだった。言ってしまえば、本当にそれだけの関係だったのだ。悲しかったし、ショックだったし、その感情が手足を鈍らせはしたけど、わたしの手足はちゃんと動いた。きっとそのまま翌日学校に行こうと思えば行けるし、友達に会えば普通に笑えてしまうとわかった。
 わかってしまった瞬間、その事実が途方もなく恐ろしくなった。
 きっと自分は忘れる。きっと自分は大して傷つかず流せてしまう。それが心底おそろしい。だから、一日だけ。せめて一日だけ、彼女のことだけを考える日を作りたいと思った。彼女への思いでもなんでもない。ただの、わたし自身の、弱さだ。
 弱さだけがただわたしを突き動かしている。その事実をずっと知っていたけど、ようやくこうして言葉にできた。書けなかったことがたくさんある。それも紛れもなくわたしの弱さゆえだ。だけど今日は、なんとか書き切れればいいな、と思う。そうして初めて、ようやくわたしは彼女とちゃんと向き合えるような気がしている。

 水族館につきました。大きな水槽を見下ろしながら文字を書いています。あのときとおんなじ。あのときは、彼女に送る文章を綴って、そのあと、一つの作品の手直しをしたのだった。
 その作品が、「夏に溶かす」だった。
 もともとこの作品は独立した作品だった。学校の課題で一万字の文章を書かなきゃいけないことになり、困ったわたしが「よーし!とりあえず好きな要素片っ端から詰め込んで生成しよう!」と意気込んで作ったものだった。ふだん、わたしの文章には経験や心情がどうしても滲みがちだけど、あの文章は「自分の好み」だけに焦点を当てたため、珍しくわたしの自我そのものはあまり見え隠れしない文章になっていた。はずだった。
 ほぼ完成形だったその文章に、後付で色がついてしまった。屋上から飛び降りた女の子は彼女になった。遺されて、何かを書き残そうとする男の子はわたしになった。別に各々の登場人物が明確にわたしや彼女をモデルにしたわけではない(そもそも、その前にこの登場人物たちはうまれていたのだ)。だけど、確実にその要素は組み込まれてしまった。感情に質量がこもってしまった。
 それがいいことなのか、悪いことなのか、わたしははかる術を知らない。ただ、「夏に溶かす」はわりかし多くの人に評価された。物語として、小説として、好いてもらえた。それはたしかだ。
 その続編として書いた「夜を晴らす」も、もちろん影響を受けている。「天国に一番近いところって、どこだろう」。言わずもがな、この問はわたしが彼女のことを考えたときにたどり着いたものだ。
 このふたつの作品は、ひとつの本になった。全部で50冊近く刷っただろうか。ありがたいことに、そのすべてが捌けきった。単純計算で、そのくらいの人の手元にこれらの話が届いたということである。その事実が嬉しく、ありがたく、少しつらい。
 わたしは彼女のことを表現したいと思う。何かしらを書き残したいと思う。わたしにできるのはそれくらいだから、彼女が少しでも好いてくれたこの文字で、刻めたらいいと思う。
 だけどそれと同時に、わたしは彼女について書くことが本当に嫌いだった。
 彼女は言わずもがな綺麗だけど、もちろん、綺麗なことだけではいられなかった。わたしは彼女が澱みを抱えていることは知っていたけど、その澱みの色については何もしらなかった。その澱みについて、彼女の死後、聞き齧ったり教えてもらったりして、現在は少しだけその片鱗を知っている。知ってもなお、彼女は綺麗だったという認識は変わらないけれど。それをわかった上でなお、わたしは、わたしの書いた彼女がただ綺麗な描写だけで埋め尽くされていくのを見るのが嫌いだった。それは本当に彼女なのか。綺麗なところだけを書くのは、それしかわたしは書けないからじゃないのか。つまり、お前は何も知らなかった、知ろうとしなかった、ということの証明。抱えていることは知っていたのに、それに踏み込もうとしなかったということの証明に他ならない。
 そして何より、消費している気持ちになる。というか、実際にこれは消費以外の何物でもないのかもしれない。感傷に浸りたいだけ。遺された自分に酔いたいだけ。そうじゃないと、そんなことない、とわたしは言い切れるのだろうか。本当に? だってお前は、そんなに深く傷ついてなんていないじゃないか。思い出そうとしなければ、そのまま笑えてしまうくらいじゃないか。それなのに書く権利なんて、お前にあるのか?
 結局は、自己嫌悪に行き着いてしまう。彼女について書き残そうと試みたことは今までに何度もあった。「夏に溶かす」「夜に晴らす」は彼女について書いたわけではない。そのときのわたしの経験が少し滲んでいるだけだ。そうではなくて、明確に彼女について書いた文章を生みたいと思っていた。命日。誕生日。毎年、そのたびに筆を執って、途中でやめてしまっていた。今日は書けるだろうか。この文章を途中で投げ出さず、最後まで書ききって、ちゃんと出せるのだろうか。出したい、と思う。その気持ちはまだ揺らいでいない。
 
 朝、家を出る前に、「だから僕は音楽を辞めた」の初回限定盤の木箱を引っ張り出して、久々にそれを開けた。人生の賞味期限の話。人生の終わり方の話。あぁ、これをわたしは彼女に勧めたのか、と改めて思う。がつん、と手酷く、でも静かに打たれたような気持ち。
 どうしても初回限定盤を手にとってほしい、と騒ぎ立てたわたしに圧されて、彼女はこれを手に取ってくれたのだった。そして甚く感動して、「あなたが勧めてくれなかったら手に取らなかったよ」とわざわざ感謝をDMで告げてくれたのだった。わたしはそれが本当に嬉しかった。嬉しかったから、鮮明に覚えている。覚えているからこそ、思ってしまう。どんな気持ちで彼女はピリオドを打つことを決めたのだろう。

 脈絡のないことばかりを書いている。でも、読み返したらきっとすべて消してしまうから、このまま綴りきってしまおうと思う。

 約束を、いつか果たしたいと思っている。また救えなかったね、と笑いながら屋上から飛び降りる女の子の話。そんな話が読みたいと言った彼女にわたしは同意した。彼女はわたしに「書いてくれるの?」と問うた。わたしはたぶん、書きたいと答えた、と思う。もうそれすらもおぼろげなのだ。ただ、彼女は読みたいと言っていたことだけは覚えている。だから、いつか書ければいい。書き切れればいい。
 書き切れるだろうか。自信はない。書きかけて、投稿して、そのまま実は放置しているからである。書くことは自傷かもしれない。それでも書ききったら、わたしはまたちゃんと、彼女のことを見つめ直せる気がする。殻をまた破れるような気がしている。待っててくれるだろうか。彼女はそんな他愛のない話、とうにわすれてると思うけれど。

 どうか、今日という日があらゆる人にとって穏やかでありますように。そして、彼女が、あめこちゃんが、どこでもいいから笑っていますように。そう祈ることくらいしか、わたしにはできないけど、祈り続けることだけは、毎年忘れたくない。そう、強く思っている。